成仏の相・地獄の相

資料 1

 そして、その証拠として、くなった人の遺体いたいの上に、地獄に堕ちた場合は地獄の相、成仏した場合は成仏の相という、厳然げんぜんたる違いが現れる、と示されているのです。
 具体的にいえば、地獄の相とは、遺体の目がカッと見開いて、口をあんぐり開いてしまったり、あるいは逆に、目も口も固く閉じてしまう―そういうすさまじい形相ぎょうそうになってしまう。また遺体がカチカチに硬直こうちょくしてしまい、時間の経過とともに、紫色の死斑しはんが出てきたなくなったり、どす黒く変化する。また、腐敗臭ふはいしゅうが出る―などと説かれています。

- 三世の生命 p.10 (暁鐘編集室)

資料 2

 日蓮大聖人は、謗法ほうぼうの心の強い者ほど臨終の相が悪くなる、それは後生に地獄にちた証拠であると、次のごとく仰せられている。

 「死する時は黒皮隠々として骨其れあらはると申して、無間地獄の前相其の死骨にあらはし給ひぬ。人死してのち色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教しょうきょうに定むる所なり。」(御書一三〇三㌻)

 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引ちびきいわの如し。」(御書一二九〇㌻)

 「或は悪瘡あくそう、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし。」(御書三六三㌻)

 この他、経典や御書に説かれる地獄の相について、まとめてみると、
 ①色がどす黒く変色する
 ②遺体いたいが固く硬直こうちょくしてしまう
 ③腐敗臭ふはいしゅうなどがただよってくさくなる
 ④苦しみのあまり眼が上を向いてしまうか、かたじてしまう
 ⑤白眼をきだしたり、眼が赤く血走る
 ⑥ひどい恐怖と苦しみに口が大きく開いてしまったり、固く閉じてしまう
 ⑦恐怖のあまり、さけんだり悶絶もんぜつする
 ⑧手でくうをつかんでもがき苦しむ
 ⑨大小便がれ流しとなる
 ⑩鼻すじが曲がったり、すさまじい形相ぎょうそうに変わってしまう
 ⑪皮膚ひふ収縮しゅうしゅくして骨がはっきり顕われる
 ⑫血をき出したり、全身に熱いあせをかく等の異常が生ずる―等々。

- 折伏必携 上 p.35~36 (暁鐘編集室)

資料 3

《何をもって死後を知るか》

 次に、死後のことがどうしてわかるのか、という問題ですが、経典には、このように説かれています。

 じゃおう、また仏にもうしてもうさく、そん、仏ののたまふかごとし。もろもろの悪衆生、地獄に入る。いかんが知ることをん。誰人かかつて見る。また、いかんがおよびちくしょうすべきを知るや。まさににんてんしょうずべき、並びに誰人か見る。
 その時に世尊、阿闍世に告げて言わく、大王、まさに一心にあきらかくべし。我、王のために説き、王をして現前に知見することを得せしむ。大王、まさに知るべし。
 もし、人、みょうじゅうせば、まさに地獄にして十五しゅそうあるべし。まさに餓鬼に生ぜば八種相あるべし。まさに畜生に生ぜば五種相あるべし。まさに人天に生ぜばおのおの十相あるべし。
 大王、何等をか名づけて、まさに地獄に生じて十五相となすや。一には、自らの夫妻・男女・けんぞくにおいてあくげんをもってせんす。二には、その両手をげてくうもんぱす。三には、ぜんしきの教にずいじゅんせず。四には、ごうていきゅうえつして涙を流す。五には、大小便かくせずせず。六には、目を閉じて開かず。七には、常にめんおおう。八には、側にしておんたんす。九には、身口しゅうなり。十には、きゃくしつせんちょうす。十一には、りょうそくす。十二には、左眼かんどうす。十三には、両目変じて赤し。十四には、おもてたおして臥す。十五には、身をかがめて左の脇を地にけて臥す。
 大王、まさに知るべし。もし、臨終に十五の相をすることあらば、かくのごとき衆生は、けつじょうしてまさに阿鼻地獄に生ずべし。」(守護國界主陀羅尼経巻第十)

 じゃおうが釈尊に質問をしたというのです。「仏様、あなたの言われるとおりなら、あくしゅじょうは死後、地獄にちるわけですが、どうして、それを知ることができるのでしょうか。誰か、見てきた人でもいるのでしょうか。また、死後に餓鬼界や畜生界に堕ちる、あるいは人界や天界の衆生としてしょうずる、ということを、どうして知ることができるのでしょうか。誰か、見てきた人がいるのでしょうか」と。

 これは今日においても、世間の謗法の人々を折伏した時に、おうおうにして出る質問であります。「死んだ後のことなど、どうして分かるのか」「死んで帰ってきた人はいない、誰が見てきたのか」等という質問がそれです。

 これに対し、釈尊は「よく聞きなさい。わかるように説明してあげるから」と言われて、りんじゅうの相に差別があることを説かれています。

 すなわち、「人が命を終えて地獄に堕ちた場合には、十五の相があらわれる。餓鬼界には八種類、畜生界には五種類、人界・天界にはそれぞれ十種類の相がある。だから、臨終において、十五種類の地獄の相が顕われたなら、その人は地獄に堕ちたのである」と仰せられたのです。

 何故、このように臨終の相に違いが顕われるのか、といいますと、生と死のさかいである臨終は、一生の総決算であるとともに、死へのスタートです。それ故、臨終の相には、その人が生前、どういう生き方をしてきたのか、死後、その生命がどうなってしまうのか、ということがにょじつに顕われるのであります。

 もし臨終において、皆、同じ相になって差別がなかったなら、死後に成仏や地獄という差別がある、といっても信じられないかもしれません。ところが、臨終の相にはげんぜんたる違いがあって、正法を信仰して成仏した人は成仏の相に、謗法を犯した人は地獄の相になって、くなるのです。

- 謗法厳誡論 p.23~24 (暁鐘編集室)

 いちだいしょうきょうろんにんしょしゃくあらあらかんがへあつめてこれみょうきょうとして、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこしもくもりなし。此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候」(御書一四八二㌻)

 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、重き事びきいわごとし。善人はたとひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事もうの如し、軟らかなる事綿めんの如し」(御書一二九〇㌻)

と仰せられています。すなわち、「いろいろな経典や論釈に説かれている臨終の相と、実際の人々の臨終の相とを照らし合わせてみると、まったく例外はない。臨終の相をもって、この人は地獄に堕ちてしまった、あるいは人界や天界に転じた、等々ということを明らかに知ることができる。」

 また、「臨終に地獄へ落ちた者は、遺体がどす黒く変色し、ずっしりと重く感じる。逆に、ぜんごうを積んで成仏した人の遺体は、れいな色白となって、その身はかるく、死後こうちょくもなく綿めんのようにやわらかいのである」とのお示しです。

 今日の医学では、死を迎えた人体は、遺体の腐敗によって腐敗臭が出、血液がぎょうするために皮膚が黒く変色し、死後硬直によって関節が死亡した時の位置で固まってしまう、とされています。それは要するに、世の中の人が皆、そういう姿になることからも、それが定説となっているのでしょう。

 ですから、その逆に、生前よりもれいな色白のはだとなり、腐敗臭もなく、死後硬直も起きない等ということは、医学的には考えられないこと、ありえないことなのです。

 しかし大聖人は、正しく信仰して成仏をげた人は必ずそのようなぜんそうになる、と仰せであり、事実、そのとおりであることは、日蓮正宗でおこなわれたそうを通じ、多くの人が確認しているところです。

 要するに、謗法の人と、正法を信仰した人とでは、臨終の相に大きな差別がある、それが厳然たる事実なのです。

 もし、生命が死後にまで続いておらず、死んで無になるのであれば、また、死後の生命に何の差別もなく、皆、等しく同じきょうがいを感じているのであれば、臨終の相の上に、こうした差別が現れることの説明がつきません。

- 謗法厳誡論 p.28~29 (暁鐘編集室)